*2006*05*
25
May |
未熟でありたい
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人と出会ったり、接っしていくことは、日常であり生きていくという本質の部分。モノや事柄は、その人の手仕事によって生み出されたものであって、大事なのは、いつも“人”であるべき、なのだと。そこからいつも何かが始まったり、終わったり。わかっているはずなのに色あせてしまわせていた、その本質の部分をなるべく少しずつでも表現したり取り戻したりして、わたしはわたしの思うところへ近づかねば、と思う。まだ、それがどこなのかは、はっきりとはわからないけれど。
「完結せずに、常に未熟であれ」。尊敬すべき人からおそわったこと。
一昨日、つばめの巣に出くわした。ピーチクパーチク。お母さんツバメが献身的に、子ども達の口へと餌を運んでいた。初夏。
08
May |
ものと思い出
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帰途に着き、さっそくハハとふたり郵便箱を表に設置してみる。ドーナツ型の水筒には、野の花を差し、麻紐で壁に吊してみた。これ、花瓶を置くとすぐソラが倒してしまうとあって念願していた策だったのだ。うん。どんどんと、自分に居心地のいい空間になっていくのは、とても、とても嬉しいものである。
そうして、ふと思ったこと。古いものをいいと思う気持ちには、そのものの佇まいに加えて、それに寄り添う思い出に惹かれる自分がいるのだ、と。かつてそれを所持していた人や時代、そしてそれを受け継いでいく自分自身の思い出の始まりでもあったり。かつてはなんでもない商品だったものが、その人をかいして同じ物が量産されているにしても一点物となっていくような。そのものに人の思い出が交わり、必然でも偶然でも大切に今の時代まで残されているからこそ、「味わい」と呼ばれるようなものへとカタチづいていくんだろうな、と。
そういう意味では、わたしにとっていちばんの思い出のもの、宝物は、高校生になる頃ハハに買ってもらった地球儀のランプかな。

05
May |
ひと針ひと針
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タイトルは『ダイヤのような日』。ひと針ひと針、何かを思ったりすべてを忘れるように針を入れながら、月日をかけて作り上げた作品にはこんな思いが込められている。
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ぎらりと光るダイヤのような日
短い生涯
とてもとても短い生涯
六十年か七十年の
お百姓はどれだけ田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう
子供たちは地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる
それから品種の改良や
りふじんな権力との闘いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
馬鹿な戦争の後始末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたりもっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品になってしまう
世界に別れを告げる日に
人は一生をふりかえって
自分が本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているだろう
<本当に生きた日>は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ
(茨木のり子)
